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emptinessとsimpleについて [雑談]

10月に銀座のggg(Ginza Graphic Garelly)で原研哉展があって、その時にギャラリートークに参加するチャンスがあったのでその内容について書いてみる。

テーマは確かemptinessとsimpleについてだった

人間は進化の段階で直立二足歩行を得たわけだけれども、
それによって、
・何かを拾う
・手を容器のかわりにする(ex:水をすくったり)
という行為が可能になった。

両手を合わせて器の形を作ると、手のひらの中には何も存在していない空(emptiness)の状態である。

古代の日本は八百万の神ということで、何処にも神様が宿っているとしんじられていた。その名残として家を建てる前に代を立てるのは、あの区画の中に神様が入ってくるかもしれない(ここ重要)という期待をしているわけです。


世界遺産でもある伊勢神宮の本殿は20年ごとにリニューアルされている。しかし、それが連続的に1000年以上続いていることは驚くべきことである。しかし、リニューアルされるごとに形を変えてきており、初めに建立された時期はポリネシア建築だったが、今は完全に純日本のものになっているという。

例えるならば、2つのコップが並べておいてあり、片方のコップに水が入っているが、その水をもう一つのコップに移し変える(リニューアル)と、完全に全ての水がもう片方のコップに移るわけではない。若干のずれが生じる。ずれながら、少しずつ進化している。これは、DNAに突然変異が起こり、進化が進むことに似ている。

●Simpleの発祥
海外においてSimpleという枠組みは約150年ほど前に出来たという。それまでは、権力者の力を象徴するために複雑な模様をつけた家具が多かった。
しかし、国家ができ、市民社会になると、これまでのように、複雑なものはいらなくなる。

一方日本では、Simpleという枠組みは応仁の乱後に出来たという。これは、応仁の乱という大きな内戦によって豪華なものは焼けてしまい、デザインがリセットされたためだという。

その中から「簡素さの中から豪華さを見出す」茶の文化が発達した。
茶室の中で食べる羊羹や米は味が違うという。それは、その行為に到達するまでのプロセスの中で精神が研ぎ澄まされていくから。極端に集中すると、周りのものが見えなくなって、目の前の動きがスローモーションに動いていくように見えるのと似ている。


●Japanese Ah-Un Model

日本では空気という言葉をよく使いますが(「空気を読む」など)、会議などで「あの件については、依存はありませんでしょうか」という提案がなされた時に何も言わないという行為=肯定の意味にとられる。この行為は責任を不在にしているもので、日本独特のものであると考えられていますが、Googleの中の人にこの話をするとよく分かるという。(それは、彼らが互いに信頼しあっているからで、日本のそれとは少し違う気もしますが)

現在担当している無印良品のディレクションでやっていることは、まさにそのことで「わかりますよね」ということを見る人に対してアイコンタクトで提示しているという。


●原さんの仕事
原さんは自分の仕事を例えるなら掃除ににているという。掃除つまりはメンテナンスとも捉えることができる。
例えば、枯山水はあの状態を保存するために、しっかりと掃除をしていなければ今私達が見ることができなかったかもしれない。だから、掃除はとても人工的な作業である。
しかし、ありのままの状態を保存するという作業も伴っているので、
正確に言うと、人工的なものと自然なものの波打ち際の管理をしているという作業なのだそうだ。
それから、「モノ」をつくるのではなく、「こと」を作ることをやっているという。
「こと」とは何かというと、記憶の結びつきを作るということ。


デザインのデザイン

デザインのデザイン

  • 作者: 原 研哉
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2003/10/22
  • メディア: 単行本



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